NPO法人オープンマイクジャパン

Chapter 01

1940〜50年代

ビート詩と朗読運動の起源

詩はもう紙の上ではなく、声で起こされるものになった。

※本連載は「オープンマイクの歴史的変遷」についてのリサーチです。本稿は第1回。1940〜50年代のサンフランシスコとニューヨークを中心に、「マイクの前で詩を起こす」という制度がどのように生まれたかをたどります。一次資料に基づく事実関係の補強・修正を加えた改訂版です。

歴史的背景

第二次世界大戦後のアメリカは、戦勝国としての経済成長を享受しながら、内側ではマッカーシズム(赤狩り)と冷戦的画一性の時代に入った。郊外化・大量消費・核家族モデルが「正常」とされ、その規範からはみだす者──知識人、芸術家、性的マイノリティ、有色人種──は静かに周縁化されていった。物質的な豊かさと表現の自由が引き裂かれていた感触のなかで、若者たちはむしろ「体制の外側」に精神的自由を求めはじめる。

ここで重要なのは、彼らが求めたのが新しい思想ではなく、新しい場所だったということだ。本に書かれた言葉ではなく、いま誰かの口から発される言葉が、出版という制度の許可を経由せずに成立する公共空間。それは、マイクの前にひとりが立つ、というかたちで初めて実現するものだった。

ふたつの震源地:ノースビーチとグリニッジ・ヴィレッジ

震源地となったのは、サンフランシスコのノースビーチと、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジである。

ノースビーチには、詩人ケネス・レクスロスがいた。レクスロスは1940年代から自宅(サンフランシスコ 250 Scott Street)で金曜夜の文芸サロンを主宰し、若い詩人たちを引き合わせていた。レクスロス自身は世界産業労働者組合(IWW)にも関わった哲学的アナキストで、サロンはまさに「リバタリアン・サークル」として組織化されていた。ロバート・ダンカン、ジャック・スパイサーらが通った、サンフランシスコ・ルネサンスの母胎であり、後のビート・ジェネレーションを舞台に上げる導線でもあった。

1953年、ローレンス・フェリンゲッティとピーター・D・マーティンが、ノースビーチの花屋の二階に City Lights Bookstore(261 Columbus Avenue)を開いた。アメリカ初の全頁ペーパーバック専門書店であり、無名の若者が手書きの詩束を持ち込んでは朗読していた場でもあった。書店は出版社を引き連れ、店は朗読会場を引き連れ、棚は人と人を引き合わせる装置を引く──「詩を売る・詩を読む・詩を書く」が一つの店の中に同居する、この建築的圧縮から、ビート詩の生態系がふつふつと立ち上がった。

決定的瞬間:1955年10月7日「Six Gallery Reading」

1955年10月7日、晩秋の夕暮れ時、サンフランシスコ・フィルモア通りの Six Gallery──元は自動車修理工場の小さなアートギャラリー──で、後に「ビート・ジェネレーション誕生の夜」と呼ばれる朗読会が開かれた。

正確な顔ぶれを言っておくと、こうなる。

  • 司会(MC):ケネス・レクスロス
  • 朗読者(5名):フィリップ・ラマンティア/マイケル・マクルーア/フィリップ・ウェイレン/アレン・ギンズバーグ/ゲイリー・スナイダー
  • 客席:ジャック・ケルアック(騒がしく朗読は辞退、ワインの寄付を集めながら "Go! Go!" と合いの手に回った)/ローレンス・フェリンゲッティ

しばしば誤って「フェリンゲッティが朗読した」と書かれるが、それは誤り。彼はその夜、客席で『Howl』に打ちのめされていた側だった。終演後数時間以内に、彼はギンズバーグへ電報を打ち、原稿を譲り受け、出版を持ちかけた。それが翌1956年の City Lights 刊『Howl and Other Poems』へとつながる。客席のたった一通の電報から、印刷史が動かされた夜だった。

ギンズバーグにとっても、マクルーアにとっても、その夜が生まれて初めての公開朗読だった。

"I saw the best minds of my generation destroyed by madness, starving hysterical naked..."

最初の一行から、聴衆は時代の狂気と個人の声が貫通しているのを目撃した。詩は、もはや紙の上に整列した記号ではなかった。それは身体から起こされ、空気を震わせ、聴き手の胸に当たって跳ね返ってくる、ある種の出来事だった。

1957年「Howl 猥褻裁判」──「声」が公共圏に出る瞬間

『Howl』はその激越な性描写と政治的言辞によって、たちまち国家機構と衝突した。

1957年3月、ロンドンへ向かう 520 部がサンフランシスコ税関で押収。同年6月、おとり捜査によって City Lights 店員シゲヨシ・ムラオが逮捕、8月にはフェリンゲッティが猥褻物頒布容疑で起訴された。検察ラルフ・マッキントッシュ、弁護 J・W・エーリック、判事クレイトン・W・ホーン。9名の文学専門家が弁護証言に立った。そして1957年10月3日、ホーン判事は『Howl』に「聴衆にとっての社会的重要性」があると認め、無罪を言い渡す。

これはアメリカ表現の自由史におけるランドマーク判決であり、以後、公的・準公的空間に「猥褻になりかねない言葉」を持ち込むパフォーマンスに、実質的に上位の、法的に保護される台地が獲得された瞬間でもある。「マイクの前で何を言えるか」は、その後の半世紀のあいだ、つねにこの判決を遠い起点として更新されていくことになる。

なぜ「声」で詩を届けるのか──ジャズ・ポエトリーとの呼応

ビート詩人たちは、単に「即興的に書かれた詩」では足りなかった。彼らが狙ったのは、ビバップ・ジャズの呼吸法を肉体に翻訳することだった。チャーリー・パーカー、セロニアス・モンクの即興フレーズが、ジャック・ケルアックのいう "spontaneous bop prosody"(即興ボップ韻律)の母胎となる。

ケルアックの『Essentials of Spontaneous Prose』にはこうある:

"No periods... but the vigorous space dash separating rhetorical breathing — as jazz musician drawing breath between outblown phrases." (ピリオドではなく、修辞的呼吸を区切る空白ダッシュ ── 吹き終わったフレーズの合間に息を継ぐジャズ奏者のように)

ケルアック自身も、「自分は日本帰国後のジャム・セッションで long blues を吹くジャズ詩人とみなされたい」と語っていた。詩は紙の上で完成する作品ではなく、息と息のあいだで起こる演奏になった。

1957年春、レクスロスとフェリンゲッティはサンフランシスコのジャズクラブ The Cellar で、Cellar Jazz Quintet をバックに詩を朗読した。録音は同年LP『Poetry Readings in the Cellar』として発売され、批評家たちはこれを「ヒップスターのレコード棚に必携」と評した。詩と音楽の境界は、こうして物理的にも溶け始めていた。

なぜ「オープンマイク」が必要だったのか

彼らが発明する必要があったのは、商業出版という流通/検閲を経由しない、身体と声だけで成立する公共空間だった。完成された作品を「発表」するのではなく、未完成の言葉から始めること。詩人と認められた者だけでなく、「詩人ではない誰か」の声も詩として尊重すること。フェリンゲッティの City Lights では、無名の若者が自作の詩を抱えて店を訪れ、棚のあいだで朗読する光景は珍しくなかった。

完成度ではなく、誤ることへの倫理。許可ではなく、ただその場に立つことへの権利。この一点から、後の音楽オープンマイクからフォーク酒場、コメディクラブまで、ポエトリースラムまで、貫いて根の部分として残っていくことになる。

主要参考

Six Gallery reading - Wikipedia / Howl (poem) - Wikipedia / The Allen Ginsberg Project / A Short History of City Lights / Britannica「The 'Howl' Heard Round the World」/ Kenneth Rexroth - Poetry Foundation / FoundSF「Rexroth and Barcelona by the Bay」「The Cellar」/ uDiscover「How Jazz Inspired the Beat Generation」

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