Chapter 02
1960年代
フォークソングと反戦運動の交差点
歌が運動を運び、観客が歌を引き受けた十年。
※本連載は「オープンマイクの歴史的変遷」についてのリサーチです。本稿は第2回。詩のために生まれた朗読の場が、どのように歌の場へと拡張していったかを追います。
歴史的背景
1960年代のアメリカは、社会の前提が同時多発的に問い直された十年だった。公民権運動、ベトナム戦争、第二波フェミニズム、ジム・クロウ法の差別構造、海外への軍事介入、労働環境改善、女性の権利──こうした矛盾と暴力に対して、若者たちはもはや芸術として「だけ」ではなく、「生活と言葉をつないだ音楽」として立ち上がる必要を感じていた。
同じ時期、ラジオとテレビは商業ヒットを大量に流し続けていたが、その圧倒的な音量に対抗するために、「小さな歌」が個人の実感から立ち上がる。歌の即興場として、コーヒーハウスや小箱でのフォーク・リバイバルが広がっていく。マイクの前に立つということは、流されない、ということだった。
グリニッジ・ヴィレッジ──「毎晩がオープンマイク」だった街
ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジは、ヨーロッパからの移民、芸術家、労働者、LGBTQ+、居子をうけたアメリカにおける都市的反体制文化の象徴だった。1950年代末から60年代を通じて、この一帯では Café Wha?、The Gaslight、Café Figaro、Folk City といった店が連鎖反応を起こし、「コーヒーハウス・ファッション」と呼ばれる現象が生まれた。毎晩のように、誰かがどこかでマイクの前に立っていた。
なかでも、歴史的に重要な三つの店を挙げておきたい。
The Gaslight Cafe(1958年開店)。MacDougal 通りの地下にあり、当初は「Gaslight Poetry Café」と名乗っていた。最初はギンズバーグ、グレゴリー・コーソらビート詩人の場だったが、やがてディラン、フィル・オクスら若きフォーク歌手の現場へと変質していく。「詩から歌へのバトン渡しの地下室」と言ってもいい。
Gerde's Folk City。イタリア移民マイク・ポルコが経営する店で、1960年1月26日に「The Fifth Peg」として開店、同年6月1日に Gerde's Folk City へと改名された。月曜日は Hootenanny Night──無名の演者が、ハーモニカで一曲ずつ歌う夜だった。これが、そのまま音楽オープンマイクの原型になる。
Café Wha?。ジミ・ヘンドリックス、ボブ・ディラン、ブルース・スプリングスティーンらが、無名時代にこの店のマイクの前に立った。
決定的瞬間:1961年4月11日 ボブ・ディランの初テレビ
1961年4月11日、19歳のボブ・ディランは Gerde's Folk City で、ジョン・リー・ホッカーの前座として初めての正式有給ギグを行った。それから半年も経たない 1961年9月29日付のニューヨーク・タイムズに、ロバート・シェルトンが彼を絶賛する評を掲載した。これがディランをコロンビア・レコード契約へと押し上げる。
「無名の若者が小さな店のマイクの前に立つ → 客席にたまたま批評家がいる → 主流デビューを起こす」──現代に至るまで何度も繰り返されることになる、このオリジナル・テンプレートが、ここで作られた。Gerde's Folk City の月曜夜は、単なるオープンマイクではなく、「産業の発見回路」そのものだった。
「We Shall Overcome」が運動歌になるまで
1960年代の象徴的な歌「We Shall Overcome」が、「黒人霊歌」やフォークとして歌い継がれるものへとまとめられたという日本語の表記は誤解を招きやすい。実際にはこの曲は、複数の社会運動を縫って育っていった。
源流は19世紀の奴隷霊歌、そして牧師チャールズ・アルバート・ティンドリーが 1900 年頃に書いたゴスペル "I'll Overcome Someday" にまでさかのぼる。1945 年、サウスカロライナ州チャールストンのアメリカン・タバコ社ストライキで、労働者たちがこれをプロテスト・ソングとして歌った。テネシー州のハイランダー・フォーク・スクールの音楽教師ジルフィア・ホートンがこれを聞き覚え、歌をピート・シーガーに伝えた。シーガーは "will" を "shall" に変え、1948 年、機関誌『People's Songs』で発表した。1957 年、マーティン・ルーサー・キングがハイランダーでシーガーの歌唱を聞く。その後、公民権運動の現場で爆発的に普及していった。
つまりこの一曲は、労働運動 → フォーク・スクール → 公民権運動という三つのオープンマイク的ネットワークを縫って大衆運動歌に育った。歌は完成品として通っていくのではなく、マイクからマイクへ、声から声へと手渡され、徐々に運動の身体になっていったのだった。
主な歌と人物
ボブ・ディラン「Blowin' in the Wind」(1962)、「The Times They Are A-Changin'」(1964)。フィル・オクス「I Ain't Marching Anymore」(1965)──彼は自身を "topical singer" と呼び、新聞紙面を歌に変える仕事をした。ジョーン・バエズは1963年のワシントン大行進で「We Shall Overcome」を歌った。ピート・シーガーはオープンマイクの精神的ハブであり、ハイランダー、ニューポート・フォーク・フェスティバル、TV番組『Hootenanny』(1963)を媒介に、声を声へとつなぎ続けた。
「歌う」は「応答する」になる──往復の場としてのオープンマイク
オープンマイクで決定的だったのは、観客が当事者として声と沈黙で参加するという構造そのものだった。合唱、応答、野次、ためいき、泣き、拍手、すべてがリアルタイムのフィードバックとなって演者に返ってくる。「歌う」ことは他者の声に応答することであり、「聴く」ことは沈黙で参加することだった。商業ライブとも放送とも違う、この双方向性こそが、フォーク・オープンマイクという形式の発明だった。
歌い手と聴き手の境界が一晩のあいだに何度も入れ替わる。この構造は、その後のスラム、コメディ、現代のオープンマイクへ至るまで、形を変えながら同じ筋として続いていく。
主要参考
Gerde's Folk City - Wikipedia / The Gaslight Cafe - Wikipedia / Library of Congress「Tracing the Long Journey of 'We Shall Overcome'」/ Britannica「We Shall Overcome」/ Village Preservation「Folk Music Revival Tour」