NPO法人オープンマイクジャパン

Chapter 06

1960年代以降

日本のオープンマイク史 ── 三つの独立した川

詩・音楽・コメディが、別々の時代に、別々の経路で到来した。

※本連載は「オープンマイクの歴史的変遷」についてのリサーチです。本稿は最終回。これまではアメリカを中心とした朗読・フォーク・コメディ・スラムポエトリーの系譜をたどってきましたが、本稿ではそれらが日本にどのように流入し、どのように独自の文化として根づいていったのかを整理します。

前提:「オープンマイク」は一本の歴史ではない

日本のオープンマイク史を語ろうとすると、最初にひとつの誤解を解く必要があります。すなわち「オープンマイクという一つの文化が、ある時期にアメリカから輸入された」というイメージは、実態とずいぶん違う、ということです。

これまでの章で見てきたとおり、海外においてもオープンマイクは決して一本道で発展したわけではありませんでした。1940〜50年代のビート詩、60年代のフォークソング、70年代のスタンダップ・コメディ、80〜90年代のスラムポエトリー──それぞれが別々の社会背景のなかで、「素人がマイクの前に立つ場」を独自に発明してきました。日本においても、それぞれは、ばらばらの時期に、ばらばらの送り手によって、ばらばらの呼び名で輸入されています。

整理するなら、日本のオープンマイクは大きく三つの独立した川として流れてきました。詩・朗読の川、音楽の川、スタンダップコメディの川です。それぞれ少しずつ別の源流を持ち、別の地理を経由し、2010年代以降になって、ようやく「オープンマイク」という同じ言葉のもとに合流しはじめています。

第一の川:詩・朗読系(1960年代〜)

意外なことに、日本でもっとも早くマイクを開放した場を持ったのは、音楽ではなく詩のシーンでした。

1960年代以降、白石かずこ、谷川俊太郎、吉増剛造といった詩人たちは、自作詩のフリースタイルな朗読を、ジャズや即興演奏家とのセッションのかたちで実践していました。これは制度としてのオープンマイクではありませんでしたが、「身体と声で詩を起こす」という意味では、ビート詩人たちの精神を日本の文脈に接続した最初の動きと言っていいものです。

この水脈が制度として明確なかたちをとったのは、1997年10月26日のことです。詩人・楠かつのりが「詩のボクシング」第1回・世界ライト級王座決定戦を立ち上げ、ねじめ正一と阿賀猥がリングの上で言葉を打ち合いました。日本朗読ボクシング協会(JRBA)の発足はこの年です。「スラムポエトリー」をそのまま輸入するのではなく、「ボクシング」という日本人にも馴染みやすい競技フレームに翻訳し直すところに、楠の編集眼の鋭さがあります。

ここで強調しておきたいのは、「詩のボクシング」(1997年)が、後述する音楽系オープンマイクの実質的な第一川(2001年)よりも数年早い、ということです。日本においては、「マイクを誰にでも開く」という発想は、まず詩の側から始まりました。これは、海外の主流イメージ(フォーク酒場でのギターを抱えてマイク前に並ぶ)とは順序が逆であり、日本独自の特徴として記憶しておく価値があります。

その後、ぽつりぽつりとラップの隆盛と接続しながら、朗読は徐々に「声の競技」へと姿を変えていきます。2014年、田中活彦がフランス留学中に「ポエトリー・スラム・ワールドカップ」に出会い、翌2015年5月5日に「ポエトリースラムジャパン」の第一回日本選手権を立ち上げました。さらに2010年代後半には KOTOBA Slam Japan なども各地に広がり、競技型スラムは全国へと拡張していきます。

つまり日本の詩系オープンマイクは、自由朗読 → 競技化 → アマチュアの場への降下、という独特の経路をたどっています。先に「上」(プロ詩人と競技フォーマット)が整備され、その熱がアマチュアの即興朗読へと流れ落ちていく、という順序です。

第二の川:音楽系(2001年〜)

「open mic」というアメリカ語が、音楽の場として日本に着地するのは、詩よりもずっと遅い時期になります。

その実質的な第一川として記録されているのは、2001年、シンガーソングライターのキッと(高山伸出身、現在は沖縄在住)が、湘南・藤沢のクラブ「朝日町パラダイス」で試験的に始めた会です。十数名から、ときには三十名級の演者が集まったとされ、これが日本の音楽系オープンマイクの起点となります。東京中心史観で日本のサブカル史を眺めると見落としがちですが、この川の源流は東京ではなく湘南にあります。

その後、震源地は下北沢、高円寺、渋谷といった東京の小箱へと伝播していきます。ちょうど 2000年代初頭は、ライブ可能な小規模カフェも増殖した時期と重なっており、「演奏できる飲み屋」という弱い街中に増えると、オープンマイクの灯も一気に広まりました。

長く続く代表格として外せないのが、2012年1月にスタートした築地 MADEIRA のオープンマイクです。月一提供で開催回数は百回を越え、音楽だけでなくダンスや読み聞かせ、マジックといった多ジャンルが同じ店の上に並ぶ、「常設・月一・ジャンル横断」型の原型を、日本でいち早く確立した会となりました。MADEIRA を通って今どこかで歌っている人や立っている人は、決して少なくありません。

2010年代後半に入ると、もうひとつ大きな構造変化が起きました。「オープンマイクねっと」「OPEN MIC JAPAN」といった集約プラットフォームの登場です。これによって、出演者はもはや特定のバンドのファンとしてだけに通うのではなく、「オープンマイクのファン」として街と街、店と店のあいだを回遊するようになりました。常設のオープンマイクが全国で250軒以上、開催予定イベントは何件もリアルタイムで増える現在の規模感は、このプラットフォーム化なしには成立しなかったと言えます。

第三の川:スタンダップコメディ系(1994年〜)

三つのなかでもっとも遅く流れ込み、しかも長いあいだ「外国人コミュニティの内側」にとどまっていたのが、スタンダップコメディの川です。

1994年、ケヴィン・バーンズが Tokyo Comedy Club(のちの Tokyo Comedy Store)を立ち上げました。第一回の会場は東京アメリカンクラブ、第二回は恵比寿のフィニッシュクラブで、この時点では完全に在日外国人向けの英語コメディでした。日本人観客による日本語スタンダップにはほとんど接続していません。2000年代から2010年代を通じて、英語スタンダップは都内のバーやカフェで、転々と巡業しながら細く生き延びていきます。

日本語側の組織化は、それから二十年以上遅れて訪れます。2016年7月2日、清水宏が会長、ぜんじろうが副会長として日本スタンダップコメディ協会が発足しました。漫才・コントの文化的厚みが圧倒的に強い日本において、「ひとりで立って、自分の言葉で社会を切る」というスタンダップの様式が定着するには、これだけの時間が必要だったということでもあります。

決定的な節目となったのが、2022年5月6日の Tokyo Comedy Bar(渋谷)開店です。英国人コメディアン BJ Fox が2015年の来日後に育てた Stand-Up Tokyo コミュニティから派生した、東京初の常設スタンダップ専門店であり、週七回のオープンマイク(月・木は英語、火は日本語)を運営しています。英語コミック、日本語コミック、観客客を同じフロアで混ぜる場を、初めて常設化したという意味で、これは日本のスタンダップが「英語コミュニティの内側」から外へ出た日と呼んでいい節目です。インバウンド文化と再接続したオープンマイクの新しい姿が、ここから立ち上がりつつあります。

三つの川が合流する場所

2020年代に入って起きているのは、これら三つの川が、ようやく「オープンマイク」という同じ言葉のもとに緩やかに合流しはじめた、という現象です。

詩人がギターを抱いで歌を試す、シンガーソングライターが自作のエッセイを朗読する、コメディアンが詩のスラムに飛び入りする──ジャンルを越境する出演者は、2010年代までは例外的でしたが、いまでは珍しくありません。築地 MADEIRA のような多ジャンル型の場、Tokyo Comedy Bar のような言語横断型の場、各地のスラム大会、そして下北沢 SOY-POY をはじめとする街単位のコミュニティ──こうしたが互いを観客として共振しはじめています。

この合流の動きを別の角度から象徴するのが、ジャンル横断の場づくりそのものを目的にした、新しい世代のコミュニティです。2019年6月にニューヨークで発足した yosemic は、詩・音楽・語りといった既存ジャンルの境界をはじめから設けない、オープンマイクとして始まりました。その実践を日本に持ち帰り、2022年春の MOTION GALLERY クラウドファンディング(202人から計 1,661,565 円・達成率111%)を経て、同年4月末に下北沢で SOY-POY がオープンします。さらに2025年8月22日には NPO法人オープンマイクジャパン が設立され、ジャンル横断の場づくりが、任意の集まりから法人格を持つ制度へと一段格上げされます。海外で胎動した「ジャンルを横断するマイクの開放」という発想が、日本に拠点として着地し、制度として整えられた──三つの川の合流が、目的化され、形ある形で、近い数年でひとつの流れになっています。

数字の上でも、日本のオープンマイクは、もはや「ハイパーニッチな拡張中の文化」という日本語版 Wikipedia の表現におさまらない規模に達しつつあります。集約サイトに登録されているだけで全国の常設会場は二百五十軒を越え、開催予定イベントは何件もリアルオーダーで毎日入れ替わります。首都圏に偏在しているのは事実ですが、愛知・大阪・京都・福岡といった都市にも厚い層が育ちつつあります。

日本的オープンマイクの輪郭

こうしてたどってみると、日本のオープンマイクは海外の「ただの模倣」ではなく、独自のかたちを持っていることが見えてきます。

第一に、詩の側から始まったこと。ビート詩からスラムへ、そして「ボクシング」という競技フレームを介して制度化された経緯は、海外には類を見ません。

第二に、地理の出発点が東京ではなかったこと。湘南・藤沢から始まり、東京の小箱を経て、いま日本中のカレンダーへと展開していきました。

第三に、英語と日本語のスタンダップが二十年以上にわたって別々に走り、ようやく合流しはじめたこと。これは日本という土地に固有の言語的二重構造が生み出した時間差です。

第四に、合流の場が都市の中の小さな店──カフェ、バー、ギャラリー、書店──に分散しており、アメリカのように巨大なコメディクラブやバーに既に集約されたものではなく、徒歩圏に小さなマイクが点在している。これは日本の都市構造そのものが、オープンマイクという形式に与えた影響でもあります。

結び:マイクの前に立つ、ということ

本連載をここまで読んでくださった方には、もはや言うまでもないことですが、オープンマイクとは単に「素人が短時間ステージに立つ仕組み」ではありません。それは、出版や放送やオーディションといった既存の制度を経由せずに、いまここで生きているこの身体から、いまここで動かされる言葉が、いまここで誰かに届けられる、もっとも原始的でもっとも公共的な装置です。

ビート詩人たちが朗読を起こすのに使ったマイクと、フォークシンガーたちが小さな歌に政治を託したマイクと、コメディアンたちが失敗を芸の一部として引き受けたマイクと、スラムの詩人たちが採点され「聴くことの責任」へと反転させたマイクと──この半世紀あまりの実験のもとに、わたしたちは立っています。

日本のオープンマイクはまだ歴史を流れるものです。詩の側から数えても五十年弱、音楽の側から数えれば二十五年、日本語スタンダップの組織化から数えれば十年に満たないものですが、たどりまさの瞬間にも、全国のどこかの小さな店の中で、誰かが初めてマイクの前に立っています。その光景は、1955年のサンフランシスコ Six Gallery と、地続きです。

主要参考

オープンマイク - Wikipedia / オープンマイクねっと・歴史 / ポエトリーリーディング - Wikipedia / 詩のボクシング - Wikipedia / ポエトリースラムジャパン公式 / マイラオープンマイク / Tokyo Comedy Store - Wikipedia / 日本スタンダップコメディ協会 / シティ経済新聞 / Tokyo Updates

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