Chapter 03
1970年代〜
スタンダップ・コメディと「笑いの実験場」
コメディアンは、台本ではなく客席との往復で原稿を書いた。
※本連載は「オープンマイクの歴史的変遷」についてのリサーチです。本稿は第3回。詩から歌へとひらかれた「マイクを通す場」が、どのように笑いの実験場へ拡張していったかを追います。
歴史的背景
1960年代のカウンターカルチャーが掲げた理想は、70年代に入ると急速にその熱を失っていく。ベトナム戦争の泥沼化、ニクソン政権を倒したウォーターゲート事件(1972〜74)、1973年のオイルショックとそれに続くスタグフレーション。アメリカ社会は一連の「理想の崩壊」を経験した。
まじめにメッセージを訴えかける歌は、しばらく白けたものとして受け止められるようになる。代わって浮上したのが、ユーモアによる迂回路だった。冗談として軽く投げかけながら、本音のドアを開ける。鳴ら泣かせるのではなく、コメディアンは、誰もが口にできない感情を取り出すための、裏口のような表現手段を持つ「声の労働者」として登場してくる。
クラブ史前:1963年 The Improv
スタンダップ専用クラブの歴史は、しばしば1972年から語られるが、実は60年代半ばに前史がある。1963年、バッド・フリードマンがニューヨーク・ヘルズキッチンの 44丁目西に開いた The Improvisation(通称 Improv)が、「スタンダップを連続フォーマットで提供する初の常設店」とされる。
開店当初の客はブロードウェイの俳優たちだった。歌の合間にコメディアンが小ネタを試すという、補助的な使われ方から始まった。やがて若いコメディアンが舞台で原稿を試す現場へと変質していく。場が先にあり、用途が後から定まっていく──これは、ここまで見てきたオープンマイク史の繰り返しのモチーフでもある。
1972年──「オープンマイクとしてのコメディ」が制度化された年
1972年は、コメディ史のなかで東西海岸が同時多発的に動いた節目の年である。
1972年4月7日:The Comedy Store(ロサンゼルス)開店。サミー・ショアとミッチー・ハベルカ、ラッディ・ショアが、サンセット大通りの旧 Ciro's の建物を改装してオープンした。1973年に離婚を機に、ミッチが運営を引き継ぎ、1976年に建物そのものを買い取った。その後、ロビン・ウィリアムズ、デヴィッド・レターマン、ジェイ・レノ、リチャード・プライヤー、ジム・キャリーらがここでネタを試し、潰されてはまた書き直していくことになる。
1972年:Catch a Rising Star(ニューヨーク)開店。リック・ニューマンが1番街と77丁目に開いた。Improv からあふれる「シングルバー街」にあって雰囲気が上品で、コメディが「流行のナイトスポット」となる空気を作り出した。
この年を境に、コメディは「酒場の余興」から、「5〜7分という上演単位で出演者を入れ替える、専用フォーマットの興行」として制度化されていく。80年代にはこの形式がアメリカ全国に「コメディクラブ網」として広がる。
「公開実験室」という発明
コメディクラブとオープンマイクの組み合わせは、笑いの作り方そのものを変えた。
これまでスタンダップは、ライターの机の上で原稿を書き、舞台で再現する、という順序のものだった。コメディクラブが導入したのは、その逆の順序である。原稿を書く前にマイクの前に立ち、客の反応で台詞を作っていく。すべったときも同時に、「すべった経験」から次のフレーズが生まれてくる。マネージャーや TV スカウトが毎夜客席にいて、観客のリアクションが次のスターを推していく。
笑いはタイミングと空気で決まるため、客席で初めて「笑える原稿」になる。だから書斎では完成しない。オープンマイクはコメディアンにとって、毎夜開かれる研究室であり、自分の生きづらさを公的言語に翻訳する装置であった。ジェリー・サインフェルド、ラリー・デヴィッド、エディ・マーフィーといった作家・演者の工房が、すべてこの工房から出てくる。
主な人物
🎤 リチャード・プライヤー 1960年代のプライヤーは、ビル・コスビーを下敷きにした「無難な黒人芸人」としてTVに出ていた。だが1967年、ラスベガス・アラジンホテルでの公演途中、彼は突然 "What the fuck am I doing here?" と言ってステージを降り、バークレーへ移住する。その後、Comedy Store などのオープンマイクで自分の黒人性、貧困、暴力、薬物依存、そのまま素材にする新しいスタイルを練り上げた。1979年『Live in Concert』で、その工房はひとつの頂点に達する。「自分の失敗そのものを芸に変える」というスタンダップの方法論は、彼の身体を経由して定着した。
🎤 ジョージ・カーリン 1972年、彼は『Class Clown』で「テレビでは決して言えない七つの言葉(Seven Words You Can Never Say on Television)」を発表する。同カーティンの放送が、後に最高裁判例 FCC v. Pacifica Foundation(1978)へと発展し、放送禁止用語規制の合憲性が確立される。一見するとコメディの敗北だが、結果としてカーリンの言葉そのものは永久に文化アーカイブに残ることになる。「スタンダップは市民の哲学だ」という彼の態度は、この裁判を遠い起点として育てていた。
🎤 ロビン・ウィリアムズ 1976年頃、サンフランシスコの Holy City Zoo(クレメント通りの小箱)に出演し始めた。即興とキャラクターの高速切り替えで知られ、1976〜77年にかけてLAの Comedy Store の常連となり、1978年の『Mork & Mindy』で全国区へと駆け上がった。観客の一挙手一投足をネタに変えていくスタイルは、オープンマイクという形式そのものを最大限に活用したアプローチであった。
なぜ「笑いの場」にオープンマイクが必要だったのか
プライヤーが「自分の失敗」を素材にした瞬間、コメディは告白(告解)治療の隣接ジャンルになる。それは個人の傷を笑いに翻訳する作業であり、観客にとってはその翻訳に立ち会うことだった。台本だけでは絶対にたどり着けない領域が、客席との往復のなかで初めて開かれる。
オープンマイクは、コメディアンにとって生きていくための実験室であり、観客にとっては「言えなかったこと」を他人の口から代弁される目撃の場でもあった。失敗と笑いと治癒が、同じマイクの前で起きていた。
主要参考
The Comedy Store - Wikipedia / The Heroes of New York's Comedy Club Scene(Richard Zoglin)/ Stand-up's first impresarios - Chortle / FCC v. Pacifica Foundation 関連資料