Chapter 04
1980〜90年代
スラムポエトリーとマイノリティの表現革命
詩を「競技」にすることで、聴くことが責任になった。
※本連載は「オープンマイクの歴史的変遷」についてのリサーチです。本稿は第4回。詩がふたたびマイクの前に呼び戻され、「競技」というかたちで公共性を取り戻していった経緯を追います。
歴史的背景
1980年代のアメリカは、レーガン政権下の新自由主義政策によって、富裕層と貧困層の格差が急速に拡大する。クラックコカインの蔓延、ホームレスの急増、ジェントリフィケーションによる都市の二極化、そして黒人、ラテン系、移民といった周辺コミュニティが、教育・医療・雇用といった基本的な権利からますます遠ざけられた。政治もメディアも、こうした実情をほとんど見えなくなっていった。
同じ時期、ヒップホップは別の経路で街の声を運ぶインフラを完成させていく。1979年の Sugarhill Gang「Rapper's Delight」をピークに、80年代後半には Public Enemy や N.W.A. が「ニュース番組よりも先に街の現実を全米へ届けるメディア」として機能するようになる。「マイクを握る」ことは、芸能ジャンルを越えて「政治的行為」そのものになっていく時代だった。
それでも、なかではあぶれ落ちる、もっと「私」たちが生のままの声で語る、という行為が、政治や報道とは別の手段として重要になっていく。マイクを握ることそのものが、社会への付与になる──それが80年代のオープンマイク文化の核心だった。
ポエトリースラムの誕生──シカゴ、Marc Smith の三段階
ポエトリースラムは、しばしば「1984年に Marc Smith が Green Mill Lounge で立ち上げた」とまとめられるが、正確には「年と店」が一致していない。事実関係を整理し直しておこう。
1984年11月:シカゴの建築労働者だったマーク・スミスが、まず Get Me High Lounge で月曜オープンマイク "Monday Night Poetry Reading" を始める。 1986年:同じ Get Me High で、最初の「スラム」形式──観客が点数で評価する形式──を試す。 1986年7月25日:会場をアップタウン地区の Green Mill Cocktail Lounge に移し、Uptown Poetry Slam 開始。これが現在まで毎週続いており、米国最長の週次詩イベントとなっている。
つまりスラムは、約2年のあいだに「場 → 形式 → 定着」の三段階を踏んで成立した。Smith は元・建築労働者であり、「詩は高尚な思想ではなく、人間の核の部分を生のまま握るのだ」という反アカデミー的な信念を持っていた。彼のスラムは、前半オープンマイク(中盤チームバトル)後半スラム本戦という三部構成で組まれており、現在のスラムの基本フォーマットがここで確立される。
ニューヨーク側の系譜──Nuyorican Poets Cafe
シカゴでスラムが組み上げられていくのと並行して、ニューヨークでは別の水脈が走っていた。
1973年10月31日、プエルトリコ系学者ミゲル・アルガリン、ミゲル・ピニェロ、ペドロ・ピエットリ、サンドラ・マリア・エスティヴェスらが、ニューヨーク・イーストヴィレッジの自宅アパートで朗読会を始めた。1974〜75年頃には参加者が増えていき、505 East 6th Street の元アイリッシュ・パブを買って公開店舗化される。これが Nuyorican Poets Cafe である。
1989年頃、舞台ディレクターとなったボブ・ホールマンが、Nuyorican でスラム形式の夜を強く推進する。シカゴ式スラムがニューヨークの詩人(ラッパー文化と接続)を介し、スラムが「ヒップ近接ジャンル」として全米に押し出されるのは、この合流点だった。1994年にはアルガリンとホールマン編集の詩華集 Aloud: Voices from the Nuyorican Poets Cafe が刊行され、スラム詩は文学市場にも到達する。
1990年──第1回 National Poetry Slam
1990年、サンフランシスコ Fort Mason にて、第1回 National Poetry Slam が開催された。組織したのは詩人ゲイリー・メックス・グレイズブルック。参加したのは三チーム──シカゴ(発祥地)、ニューヨーク(Nuyorican)、サンフランシスコ(開催地)。初代チャンピオンは パトリシア・スミス。彼女はその後、四人優勝四回という史上最多記録を打ち立てることになる。
第3回までで原稿に登場するもうひとつの象徴的人物、サウル・ウィリアムズ は、時代的には少し遅れて登場する。1996年に Nuyorican のグランドスラム・チャンピオンとなり、1998年の映画『Slam』(サンダンス審査員賞・カンヌのカメラ・ドール賞)で世界的に認知される。詩、ラップ、演劇、哲学を融合させた彼の朗読は、リズミカルで、激しく、誠実で、「言葉とは武器であり、楽器であり、祈りの残響でもある」という彼自身の言葉を、声そのものに変容させる。
パトリシア・スミスが詩のなかで最も鋭かったのは、社会問題という抽象から、身体に刻まれた個人の記憶へと翻訳することだった。黒人女性として家庭内暴力、人種、歴史を語った彼女の詩は、「これは私のことだが、あなたのことでもある」という回路を聴衆のなかに開いた。彼女のスタイルが、90年代スラムの主要モデルとなる。
なぜ詩を「競技」にする必要があったのか
スラムの本質的な発明は、点数化によって、聴き手に「聴く責任」を課した点にある。10点満点でランダムに選ばれる五人の観客が採点する形式は、観客にゆだねるのを怖れない、緊張を与える、話したことを届ける、を可視化する装置として機能した。これは批評行為の民主化でもあった。
評価されることは怖がられがちだった。だが同時に、それによって「自分の声を誰かに届ける」という意志が、確かなものになる。この緊張のなかで、言葉は磨かれ、表現は鋭くなり、場は育っていく。「誰でも語れる」という自由のなかから、「どう語るか」への真剣さが立ち上がった。
教育・矯正・コミュニティへの拡散
1990年代に入ると、スラム形式は学校、少年院、刑務所、薬物治療施設、移民支援プログラムへと用途を広げていく。生徒が自分の経験や感情を詩にして、クラスメイトの前で朗読する授業も広がった。Youth Speaks(1996年サンフランシスコ設立、後の全米ユース・スラム Brave New Voices の母体)は、その象徴である。
詩は、もはや「文学」ではなく、「生き直すための技術」になっていく。マイクの前に立つことは、誰かのリハビリになり、誰かの自己肯定になり、誰かの政治参加になる──そういう道具として、80〜90年代のオープンマイクは公共性を再獲得していった。
主要参考
Marc Smith (poet) - Wikipedia / Slam's Origins - Performance Poetry Preservation Project / Nuyorican Poets Café - Wikipedia / National Poetry Slam - Wikipedia / HistoryLink「Slam Poetry Brief History」